Observerの運命論者
「最後にerかstをつけて、自分を表現してみて。」
今日の朝のお題。
dreamer、かな?
ここ最近ジョン・レノンのimagineをよく聴いていたせいか、
今日はさっと答えが浮かぶ。
例によってそんなに深く考えていないけど。
いや、夢見る方じゃなくて、見せる方かなあ?
なんて言うのかな?そうなると。
独り言をぶつぶつ言っていると、くんくんが構わず言った。
「自分はObserver。」
え?何も自分ではしないの?
「私は”見る者”ですから。」
来た!これは・・・
「唯一保証される"主観"という存在を持って、動いているものを見てるんですよ。」
やっぱり。
それはあれですか?サーンキヤ哲学でいう、プルシャとプラクリティですか?
するとくんくんは意外にも
「何それ?」と言うではないか。
「人が言っていたことなど覚えていないよ。」
え、そうなんだ。
「私に限らず、すべての存在の本質はそうです。
あなたもですよ。」
確かに、ヨーガ哲学においてもそうだ。
”我思う故に我あり”の先にあるものだ。
目に見えるフィジカルボディは自分自身ではないし、喜怒哀楽のマインドすら自分本体ではない。
最初に見る者がいて、見られているので動き出した。
それが感覚器官であったり、ファイブエレメント空・風・火・水・土。
それはさておき、
サーンキヤもヴェーダンタも学んでなくて、なぜそういう解釈になるんだろうか?と不思議に思っていたのが通じたのか、くんくんが言う。
「運命論者がそれは事実の集合だと行き着いたら、あとはもう”見る”しかないじゃない。」
ははあ。
どういう考え方をしていっても、結局真理に辿り着くと言うことか。
それを自分の思考を持って若くして行き着いた(たぶん高校生くらい)くんくんはやっぱりただ者ではないと思うのである。