摂理
「宗教に寛容な日本人に天国と言ったら何を思い浮かべるかな」
とくんくんが一緒に朝ごはんを食べているときに問うて来る。
キリスト教なら天国、仏教なら極楽かな?
天国にはイエス様はいるのかなあ。
お釈迦様は極楽にいる?
「おそらくいない」
「姿形が見えていたらそれは二流。
もしくは慕って信じたい人達がしがみついている残滓。」
はあ、なるほど。
確かに仏陀は自分を崇めよとは一言も言ってないという。
弟子達が仏陀の言葉を集め、広めているだけだ。
しかし、二流とは。
宗教家の人達に聞かれたら怒られそう。
でも、くんくんに更に聞いてみる。
「存在を認識されているうちはまだ二流ということ。
いや、三流と言ったか?」
わ、もっとひどくなった。
くんくんは自分の言ったことを正確には覚えていないこともある。
その時に思っていることを言葉にするので、一字一句違えずにもう一度言うことはしない。
ただ、私は可能な限り、くんくんの言葉をそのまま残したい。
「現世にはもういないんだよ。
本質はもう昇華されてなくなってるからそこにない。
捨てられた残りかすをありがたがっている人にはそこしか見えないから。
見るべきはその先なのにね。
深く考えたことのない人は見えている部分だけで終わっちゃうんでしょう。
何かをつかんだと思った先にそれを追求して行く人は少ない。
それがゴールだと思って止まっちゃうんでしょう。きっと。
あるべき場所はことわりだからね。
『摂理』
良く自分勝手な人が”俺がルールだ”って言うけど、まさしくルールなんだよ。
そうあることと自覚すべき。」
ヨガ哲学では『自然の摂理』はお馴染みだ。
言い換えるとそれが神だから、ヒンズー教ではSivaとかBrahmanとかVishnuとか、神さまを具現化してみせてはいるけど、そういうことではなく。
私は無宗教だけど、風や太陽や土やいろいろなものに敬意を持っている。
何かあれば祈る。
誰に?
摂理に。
とても納得が行くひとつの答えだった。
面白い、くんくんの話をずっと聞いていたいなあ。
会社に行く支度をするくんくんに言う。
哲学者はこれから出勤だ。
