くんくん哲学と修行中ヨーギ

哲学者くんくんと修行中ヨーギの日常会話

幸あれかし

「幸せは誰かが持ってくるもの?」

「幸せは人の手で持ち運べる物ではなく

ただそこにあるものなのだと気付ける」

「ここここに至り

もはや言葉など不要。」

「幸あれかし」

 

くんくん、お誕生日おめでとう。

別にめでたくはないというので、

こうして今日も生きてることがめでたいと思ってくれる人が

いるのはいいものじゃない?

と聞くと、

「その日だけが特別というのはどうも」

 

毎日そうであるのがいいんだね。

 

 

幸せとは

くんくんが会社に行く前に問うてきた。

 

「幸せを誰かが持って来てくれるのを待っているのは、こどもだと思う?」

 

うーん・・・

こどもというか、人によるんじゃないかな?

私を見てればわかると思うけど、待ってても幸せにはなれないから

自分の手でつかみ取りに行くものなんだよ。

こどもの頃からそうだったし。

だからその人の性格によるんじゃないかな。

 

自分の力でなんとかできないうちは待つしかないから。

こどもだろうと大人だろうと。

 

「じゃあ、幸せは人の手で持ち運べるものではなく、

ただそこにあるものなのだと気付ける、

っていうとだんだんこどもから大人になってる感じする?」

 

う、そう来たか。

すみません、未熟なもので。

 

「そうなると次はこれかな。」

 

くんくんは今考えたのか、ちょっと前に考えていたのか

わからないけど、真理をまた言った。

 

「ここ、ここにいたり

もはや言葉など不要。

幸あれかし。」

 

真理への階段。

私は何段目まで登ってきているのだろうか。

 

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ネモフィラの許し

ベランダのネモフィラがみんな太陽の方を向いて咲いているのを見ながら

くんくんと朝食をとっていた。

 

くんくんがネモフィラの語源を調べてくれて

ネモ:小さな森

フィラ:愛

から作られたと言った。

 

そして花言葉の中に”許し”というのがあったので、

何を許せばいいのかな?と呟いたら

 

「人の愚かさとか不完全さ」とくんくん。

 

「もう付き合いきれない、おまえたちなどどうでもいい、

とさじを投げた時に、怒りから解放されるんだよ。」

 

「怒っているうちはどこまでも人間なんだよ。

ある意味、悟りの道は諦めの道なのだと思う。」

 

お、ヨーガ哲学に近づいて来ました。

 

「考え方が内向きなのはそういうことなのだと思う。」

 

確かに確かに。

そうだ。

 

くんくんは続ける。

 

「あなたはネガティブだけど、人に希望を見いだせるタイプでしょう?

改善点をみつけようとするでしょう?」

 

はい、そうですね。

私がネクラなことはよく見抜いている。

決して明るい人間ではないし、一人で家で何かに没頭するのが大好きだ。

 

でも、人は好きだ。

そうでなかったらこの仕事はしていないし、続いていない。

 

「もう処置無しと思ったら、悟りの道を志すといいよ。

そこが最後の逃げ道だから。」

 

なるほど。

 

以前、「お母さんは悟るのには向いていない」

と言われたことがあるが、

---忘れたくないことがあるなら---

最後にその道をとっておけばいいな。

 

「だから年をとった人が悟るんでしょう。

なんとかしようと思ってやってきたけど、

無理だと悟る。

 

なんとかする体力も残っていないし。」

 

そこまではなんとかしようとあがくべし、なのかな。

 

そう言えば、といってくんくんがまた面白いことを言った。

 

「フィロは”愛する” だから

フィロソフィーは”地を愛する”ということだな。

ソフィアは地に由来する語源だから。」

 

そうか!

哲学は地を愛する、つまり自然を愛する学問なんだな。

くぅ~っ、くんくん、ありがとう。

キミの言葉の知識と考察は本当に私にとっては宝の山。

私がヨーガ哲学にひかれたのは、そういうことなのかもしれない。

 

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善性

くんくんと私たちが使う言葉について話していた。

二人とも汚い言葉や流行言葉が好きではない。

かといって正しい日本語だけを話したいということではなくて、

感覚の問題だ。

日本語は移り変わりが早いので、今、流行っている旬の言葉みたいなものがある。

多くの人がそれを使い出す。

そしていつの間にか古くなる。

 

「あなたも汚い言葉は好きじゃないでしょう?」

生まれた時からずっと一緒にいるので、本当に腹が立った時でも、

私がそういう言葉を言わないのはくんくんは知っている。

 

うん、そうだね。

なんでかな?なんかあんまり好きじゃないんだよね。

 

「善性の問題だよ。 育ちがいいわけじゃないのに品がいい。」

「性根。」

くんくんは当然、私の生い立ちも知っているから、いわゆる”いい家”に生まれたわけでもないことも知っている。

いろいろ苦労して育ったことも知っている。

他の人から”育ちがいいわけじゃない”

と言われるとさすがにムッとするかもしれないが、

くんくんに言われると字面通りでなんの悪意も他意もないので

すーっと聞ける。

”善性”か。

 

「あなたは人が悲しんでいる時に同じように悲しい気持ちになるか、

良くなればいいと願うでしょう?

世の中にはそうじゃない人もたくさんいるんだよ。」

 

信じられないけど、”人の不幸は蜜の味”などという言葉が存在するくらい

だから、そういう心の動きがあるのは確かなんだろう。

 

「人の不幸を面白がる輩が特に匿名性の高いネットの中には

うじゃうじゃいるよ。

日本人は陰湿だからね、自分の正体が誰だかわからないところでは

特にそういう質を出す。」

 

とあるネットの掲示板の話題になり、一応私も知っているけど

見ていると気分が悪くなるのであまり見ないという話から

ネットの言葉遣いの話になる。

 

(笑):かっこわらい

 

今、フルではあまり使わなくなったけど、冗談だとわかってもらうためや

伝わりにくいニュアンスを伝えるために、あえて

”笑。” だけ使うこともある。

でも”w”は好きじゃないんだよね、なんか。

そういうと

「”w” は人を馬鹿にしているニュアンスがある。

wwを見ると除草剤まいてやろうかと思う。」

とくんくん。

 

ご存じない方のために一応補足。

w=waraiの略=草に見える

草←除草剤。

 

くんくんも好きじゃなかったんだね。

そういうところ、似てると思う。

 

笑いはたいてい自分への自虐か他人、

つまり、誰かの失敗が必要だと弟が以前言っていたけど

お互いが楽しくなる笑いと、一人だけ笑ってる嘲笑の違いがあると思う。

 

そうか、だから自分は使わないんだな、あえて。

そう気付く。

 

ふだんの何気ない会話では簡単に返信するけど、

そういうことの積み重ねで人との関係はできていくことを考えると。

 

手紙からメールになってやりとりの感覚が短くなって

メールからLINE(私たちはやらないけれど)やメッセンジャーなど

になって朝早いとか夜遅いとか時間も気にしなくなって

もっと頻繁になって

だから一言二言で会話が終了するようになって。

 

便利だなと思うけれど

便利と引き換えに失うものはここにもあるんだと思う。

 

その人のやり方でいい。

時代後れな感じでもいい。言葉が最新だから何だというのだ。

 

私の母などいまだに

”だってもヘチマもない”

”結局薬局”

”わたし○○な人だから”

と前置きするが、もう母はそういう人だからそれでもいい。

言葉に癖がありすぎて誰がそれを言ったかその場にいなくてもわかるくらいだ。

 

簡単でもいいし、挨拶が長ければ丁寧なわけでもないので

とにかく、自分の中の善性が穢れないように生きていきたい。

 

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来世のこと

今、この世で出会っている人はみんな理由があって出会うという。

そして家族になるような近しい人は、前世でも来世でも何らかの形で会うんだそうだ。

 

夜ご飯を食べながらくんくんに言った。

次もまた会おうね。関係の深い人とはまた会えるらしいから。

 

するとくんくん、

「会わないと言うこともある。」

え?なんで?

ああ、くんくんはもう生まれ変わらないのか。

もう今回の人生でこの私との関係のカルマを昇華し終わるの?

もうすべきことは終わるということなのか。

 

えー。

また会いたい。

 

「そう思える何かを用意してあげる。」

とだけいった。

 

やはりそうなのか。

そうなのか、キミは還っていくのか、元いた場所に。

 

「自分がそう思えているのならそれが事実なんだ」

 

「すべての主観に対してひとつずつの世界が与えられるとしたら、願いは叶えられることになる」

 

「私の願いは変わらないよ、すべての命あるものが幸福であること」

 

ここ数年、私がどこかに旅に出るたびにくんくんが言っていることは、

「一緒にいられる時間はもうそんなに長くないのに」

 

私の寿命はあと何年か知らないけど、そういうことなんだな。

 

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多数決

ある人が家の外に出て庭木を手入れしていた。

そこに車椅子のご近所さんが通りかかって、何やら近くの家を取り壊しているのを見に行くと言う。

 

二人とも自分の家の前なのでマスクをしていなかった。

 

一緒に見に行くことになり、車椅子を押してその取り壊している家の前に行くと一人の男性がこれまたマスクをしないで何か体操のようなものをしていた。

 

3人は量らずしてノーマスクのままお話しながら家を一緒に見ていた。

 

そこへ一人の男性が通りかかって、(彼はマスクをしていた)3人に挨拶をしながらマスクをとってポケットに入れた。

 

”多数決”

 

多分、最初の3人も、どこかに出かけるときはマスクをしているんだと思う。

だけど近所で人と話をするつもりもなく家を出て、たまたまそうなった。

 

最後の人も、みんなに合わせたのではなく、本当は外を歩くのにマスクをするなんてばかばかしいと普段から思っていたのかも知れない。

 

それで、「ああ、ここではとっていいんだな」とホッとして外したのかも知れない。

 

こういうことだ。

 

ヨガでは体の声を聴くという練習をいつもする。

 

呼吸法などでもその日の体調によって、息苦しいと感じたら無理に続けず、いつもの普通の呼吸に戻して休憩したりする。

 

息苦しいというのはあきらかに体からの声である。

 

それを無視して人に合わせたりしないのだ。

 

酸素が脳を始め、体の隅々まで行き渡らない状態が長く続くことで体の機能は弱る。

 

最近骨折をする人、怪我をする人が本当に増えているが、酸欠と運動不足による筋力の低下が原因なのではないかと私は思っている。

 

ストレスによる不調は更に多いから、目に見えない数字はこちらの方が毎日右上がりなはずだ。

 

そのことがあきらかに健康的ならやったらいい。

 

だけど、ただイヤだと言うだけでなく、大元の理由付けをちゃんと考えても理不尽な習慣はなくした方が良い。

 

自分がウィルスを持っているかも知れないので、マスクをすることによって唾を飛ばさないから安心だと思う人もいるでしょう。

 

そもそも、今、世界的に騒がれているものの正体を根本から考えてみると、答えは出る。

あの検査はそもそもそういう目的では使っちゃダメだと本当の専門家は当初から言っていた。

 

 

数字の累計に騙されてはいけない。

数字そのものが不確定要素がありすぎるから。

 

死とか重大な怪我を含めたら、車の事故の方が断然、圧倒的に危ない。

 

 

いろいろなカラクリが多すぎるのも、腑に落ちないな。

 

去年の春くらいまでは正体の知れないものを遠ざけて防衛していた私が、何故ハッと気付いたかこの前しみじみ思い出していた。

 

あのまま考えないで世間に合わせていたら・・・

 

「マスクをしていない人を見るだけで不安になる」

 

「部屋の窓が開いていないと不安になる」

 

「人に触られる、触るのが怖い」

 

 

これは私の意見だが、こういった不安を常に持ってしまっていること自体が人間として問題なのだということに気付いて、

その不安を作り出したものが何なのか?を更に探ってみると、ストレスはかなり消え去るはずなんだ。

 

 

一年半かけて人々は恐怖を植え付けられていった。

 

人々のやさしさを利用して。

 

老人や体の弱い人、大きな病を患った人は特に危ないと毎日連呼して。

 

そんなことは言われなくても、普通の風邪レベルでも、ただの疲労でもそうなのに。

 

体が弱っているとき、免疫が下がっているときは風邪もひきやすいし、こじらせてしまうと死んでしまう。

 

私も1回それで死にかけた。

 

 

それはわざわざ毎日言うことではないよね。

 

今は健康なのに、病気を恐れなくてはいけない日々が続くと、元気がなくなってしまうじゃない。

 

 

今、ちっぽけな私がここで何を書いても、その岩のように肥大した恐怖の塊は崩せないと感じる。

無力だなあ。

 

 

こども達や若者の5年後10年後に想いを寄せる。

 

それと引き換えに何を大事にしているのか?

 

小さなこどもがマスクをしているのを見ると胸が痛いよ。

 

体育の時間にマスクをしたまま走って亡くなった小学生。

 

こどもは自分で判断できないから、周りの空気を読んだり、大人たちの決めたルールをただ守る。

いい子と言われている子ほどなんだ、それは。

 

 

 

老人が顔を真っ赤にして苦しげにマスクをして杖をついて歩いているのも見るのがつらい。

 

注射を打てば安心だと信じている人もたくさんいる。

ここでも私はマイノリティだろう。

 

そうしないと社会生活からはじき出されてしまうように変わっていくのを逆に私は恐れる。

 

 

その注射で亡くなったり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、取り返しのつかないことになる人もたくさんいる。

 

通常は10年というスパンで人体への実験が必要なのに。

 

今、世界中で人体実験が行われている。

 

そういうと聞こえが悪いから違う言い方をしているけど。

 

 

田舎の親御さんにも会えないでいる人が多いと思う。

 

ご本人は来て欲しい、会いたいけど、特に東京からウィルスを持って来た!とばかりに近所の人から噂されるのが怖いから来ないでという人も多い。

 

もしもそこで病気が発生したら、もうその町には住んでいられないと言う。

 

「結局人は何を恐れているかというと人を恐れているんだよ」

 

くんくんは言った。

 

人間として生まれて来て、いつ死ぬかわからないけれど、今、この瞬間の積み重ねが幸せでいて欲しいなと家族、友人、知らない人だって幸せでいて欲しい。

 

ありがたいことに、今の私の周りには「真実」とか「自然」とか「自然の摂理」について考えている人が多いので、

普通にこういった話ができるのだけど、そうじゃない人のほうが多いのは知っている。

 

「多数決の恩恵を受けたことはこれまで一度もない」

 

冒頭の話をしたら、くんくんが言った。

 

 

 

 

くんくんのマハーバーラタ

マハーバーラタはクシャトリアを減らすためだからね。」

くんくんが言う。

「だいたい登場人物は役割を持って生まれて来てる。」

まあ、人はみんなそうなんだろうけれども。

 

「クリシュナはVishnuだし、アルジュナはインドラの子、カルナはスーリヤの子。」

「アシュバッターマンはルドラ(=Siva)、ヤマ(閻魔)でもあるね。」

アシュバッターマンの下りは私もすごく好きなシーンなんだけど,永くなるから割愛。

 

「父親のドローナ(アルジュナのグルね)は熱心なシバ信者だったから、息子が死んだからと瞑想してる間に殺された。

おかげで息子のアシュバッターマンは外道に落ちた。

”オマエらがそのつもりなら”と本来の戦いで禁止されてたことをどんどん破っていったんだから。」

注)夜は戦わないとか、無防備の物は襲わないとかルールがあったそうです

 

「インド界のトロイア戦争だよ、マハーバーラタは。

トロイの木馬が使われたっていうやつ。」

トロイの木馬”っていうとコンピューターウイルスが思い浮かんじゃうけど、本来のはなんなの?

「戦利品として運び込まれた木馬の中に兵士がたくさん仕込まれていた。」

なるほど!だからあのコンピューターウイルスの名前なのか。

 

「もともと神が人を減らそうとして起こした戦争。」

「ちょっと神の血を引いた人間増えすぎてない?みたいな感じ。」

 

だからマハーバーラタか。

納得。

 

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