好きか嫌いかでできている
え?感情、そういうものはあっていいと思う?
最近、猫のようによくじゃれてくるくんくんと話しているとき、
会話の中で疑問に思い、聞いてみた。
「感情?
存在保障の制度の話だよ、それは。」
「実際にあるかどうかわからないけど、自分の中の世界は
信仰によってのみ成り立つ。
あると信じたものしか存在しないんだ。」
「ないものは証明できないってヤツ。」
それは”思考”じゃないの?
感情、つまり、悲しいとか嬉しいとか怒りとか、
それは思考とは違うんじゃないの?
ちょっと腑に落ちないというか、わかってないような顔を私がして
いたのだと思う。
くんくんは続ける。
「いかなる思考も、その根源は感情。
”信じたいものを信じる”は感情。
無意識な部分が大きいから感情だと気付きにくいけど。」
「何か物事を追求していくときに、
『なんで?なんで?どうして?』とこどものように答えを求めていくと・・・」
くんくんが幼児のような言い方をまねて言う。
そうだから、そうなんだよ!ってなる?
と答える私にすかさずくんくんは
「そういう思考停止じゃなくて」
「行き着く答えは、
『だってそうじゃないとイヤだから』になるんだよ。」
好き、嫌いは感情。
確かに。
ふぅ~ん・・・ヨガ(サーンキヤ)の考え方とはちと違うけど、
細かく分類しないで行くと、結局はそういうことなのかもしれないと納得する。
更に聞いてみる。
じゃあ、好きも嫌いもなく、神さまがこうせよと降ってきたようにするのは?
「何が神なのか?ということだよ。
それは本当に神が言ったことなのか、どうやって証明する?」
瞬殺。
聖書に書いてある、は?
「聖書に書いてあることが真実かどうかどうやって証明する?」
確かにそうだ。
例えば、あなたの過去生が見えますという人も、本当に正しくそれが
見えているかどうかは誰にもわからない。
そこからキリスト教の教会の話になり、ヨーロッパの豪華絢爛な建物は
どれだけの富と労働力を集結しているんだろうね、あれを見ると、
きれいだな、すごいなという荘厳で芸術的な美しさはさておき、過去からの世界中で行われた他宗教の排除、圧力、搾取、えげつないよね。
宗教関連の建物が立派すぎると、信者はどれだけ搾取されてるんだろうと思う私達である。
「そうね、エジプトの王の墓なんかのほうがまだしっくりくるね。」
わかりやすく富と権力だからね。
そうやって話はどんどん広がっていくが、誰が何を信じようと人に危害を与えない限り、その人の自由だし、より良く生きたい、救われたい、という想いは当然である。
自分自身を信じるのか、誰かの言葉を信じるのか、それを選択するのは自分だ。
そこも感情なのだろうか?
無意識下ではそうなんだろうな、とちょっと思う、くんくんニストである。